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立命館大学 (衣笠キャンパス) の留学生ブログ
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だいたい日本とアメリカは同じものがあるけど、詳しいことはよく違う。例えば、アメリカと比べて、日本の道はとても狭い。そのように、アメリカの家も日本の家ととても違う。

まず、ほとんどのアメリカの家はだいぶ広い前庭があるから、みんな芝刈り機を持っている。日本のようにアメリカの家はそんなに近くない。近所でも家はあまり近くなくて自分の家に住んでいることが普通だ。確かに若者はアパートとかによくすんでいるけど、家族ならたいていのはもう自分の家にすんでいる。日本と違ってアメリカはまだたくさん土地があるから。

そして、家に入ると日本のような玄関がない。たいていアメリカの玄関は木で作られたけど床は高くしない。初めて入ったルームは「living room」と呼ばれて、家族の余暇時間ためも客さんのためルームだ。そして、その家によって、台所も部屋もお手洗いも選択ルームもガレージもほかの余暇ルームがある。時々二・三つのお手洗いがあって、台所は広くて、家族の人はみんな自分の部屋をもっている。誰も布団をぜんぜん使わない。そしてたいてい一つの家は一つのエアコンがある(各の部屋に別々なエアコンじゃない)。アメリカ人も一日中エアコンを使う。

それは少しの違いだけだけど、日本とアメリカの家の違いをもっと分かるかな?
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マーチン・ルター

                                                                       マルシャク・フリーデリケ

11cf5752.jpegマーチンルターは1483年から1546までドイツで息が通った。アイスレーベンで生まれたから1501年にエルフルト大学に入った。1505年ルターがエルフルトの聖アウグスチノ修道会に入った。神の事をよく信じている聖アウグスチノ修道会の修道士であった。その時、宗教家がお金をもらうために贖宥状を売った。ロムのサンピエトロ大聖堂を建てるつもりがあったからである。でも教会を建てるために贖宥状を造る事は聖書で書いていないから教皇と宗教家の批判をしった。ですからルターが1517年10月31日にヴィッテンベルク城教会の扉に彼が書いた旨を記した紙を張り出った。その結果、るたーが異端者になりたので友人が彼を助けて、ヴァルトブルク城の中に生ければならなかった。
ヴァルトブルク城の部屋で彼がそのまでラテン語だけで書いている聖書をドイツ語に翻訳しった。るたーが宗教改革者になりたくなかったがルターに友人と生徒がルターの考え方について色々なところで話したから宗教改革があった、クリスト宗教がカトリックとプレとスタントに分かれる。

アベ・ピエール191255 - 2007122日は、フランスの司祭、慈善活動家だ。私財を投じてホームレスなどの救済に一生涯を費やした

リヨンで裕福生糸商人の5番目の子供として生まれたが、18歳の時に父親の遺産を慈善事業に寄贈し、清貧を旨とする托鉢修道会カプチン修道会に入る。第2次世界大戦中はナチスによる占領下のフランスでユダヤ人を助ける。

1949年に自らの資金でホームレスなど何らかの理由で社会に適合できなかった人々を救済するための協会「エマウス」を設立。全国で回収した不用品をリサイクルして販売するいう独特な資金調達法でも有名なこの協会は、現在フランスに115拠点、世界41カ国にネットワークが広がる大きな活動となった。
グスタブ・ヴァーサは1523から1560までスウェーデンの王様であった。国のことを決めて、もちろんとても有力であった。そのことをよく表している、次のようなエピソードがある。
        冬の時グスタブ・ヴァーサは敵から逃げたかった。昔であったし、冬であったし、スキーで逃げることを決めた。スウェーデンの真ん中にあるモーラという町から、ノルウェーまで行きたかったけれども、スウェーデンにあるサーレンという町でグスタブは敵に掴まれて、モーラまで連れて帰った。グスタブ・ヴァーサはこれをしたためスウェーデンで毎年サーレンからモーラまでヴァーサロッペトというスキーの大会がある。何千人もの人は毎年ヴァーサロッペトの九十キロをスキーで走っているから、とても人気がある、ですから参加しない人は必ず家で座って、テレビでヴァーサロッペトを見ている。

ジャク・シラクさんは市長とか、上院議員とか、総理とか、大統領も二回いたので、フランスの政治の世界はシラクさんを覚えるであろう。しかし、政治の世界で1960代からいるのみならず、シラクさんは、今でも、普通の人いっても、ニューズでたびたび出ている。理由は、市長のときも、大統領のときも、違法な行動をしていたかどうか、警察がアンケートをしている。

シラクさんはパリの市長のとき、変なことが起きてきた。例えば、ある墓地にいる死んだ人がシラクさんに投票したかもしれない。そして、もパリの市長のとき、市役所で働いていなかった人が市役所から給料をまらった。その人はシラクさんが作った党の友達であった。

面白い話がもいっぱいある。例えば、一回目大統領いたとき、自分の国会を解散したしまった。なぜなら、上院議員の数を増えるつもりであったからだ。そのせいだ、シラクさんの党が次の選挙を負けたので、野党は政府になった。けれども、大統領が残った。

時々、シラクさんは非常にラッキーである。2002の選挙、人気がなかったにもかかわらず、シラクさんが勝った。理由は、候補が二人だけあったとき、シラクさんとレペンさん、他の候補は極右であったので、皆がシラクさんに投票した。野党の人が投票しにあまり来なかったので、極右が野党より少ない投票数をもらった。普通の野党だったら、シラクさんがきっと負けた。

しかし、最近、警察が来ている。ほとんどの人はシラクさんが違法なことをしたのを信じるが、大統領いたとき誰もが何もできなかった。しかし、今月、判官がシラクさんを呼んだので、実が多分出てくる。判事で働いているシラクさんの友達が今度手伝えないだろうか。

フランスでは、このような有名な人がいる。もちろん、親切な人もいるが、あまり面白くないと思う。

Risorgimento.jpg ジュセッペ - ガリバルディは傭兵隊長で, イタリアの愛国者でした. イタリアのリソルジメントの基本的な人で, イタリア統一運動に貢献するためにいろいろな戦いを戦いました. また, 南アメリカもヨロッパにも有名な戦いに勝ちましたから, 二つの世界の英雄 とよばれています.

1860年に, 二つのシチリアの王国を征服するため, 言われた1000人の武装を組織することにしました. この人の集団は赤いシャツとよばれていました.

全部の人と一緒にシチリア州のマルサーラに上陸した後で, シチリア州の公言して, ヴィットリオ-エマヌエーレはイタリアの王になりました.

だんだんシチリアからナポリにやって来ました. その頃, ナポリは二つのシチリアの王国の首都でした. ナポリの王の軍隊の戦いは本当に有名な戦いでした. それから, ガリバルディはヴィットリオ-エマヌエーレと出会って, 主権を手渡しました. ガリバルディの格言はやっと実現しました. すなわち, イタリアとヴィットリオ-エマヌエーレということでした.

ジョニー・アプルシィードは1774年に生まれた。彼の生まれた時の名前はジョン・チャプマンである。チャプマンは自然環境保護論者で有名な人によって、米国では伝説的な人物になった。米国人達の小学生の頃ジョニー・アプルシィードの伝説に教えてもらうと思う。しかし、大人になったら、その伝説を忘れてくる。どうしてジョニー・アプルシィードが有名であろうか。

チャプマンは最初のアメリカの環境保護論者である。オハイオ州、インディアナ州、イリノイ州などにりんごのことを紹介した。アメリカ中りんご木の苗床を栽培してりんごの人気が増えていく。しかも、チャプマンは何生物でも気に入っていた。伝説によると蚊さえ殺させなかった。

Johnny Appleseed



 


Corrie Ten BoomCorrie Ten Boom (コリ・テン・ブーム)は1892に生まれてオランダ人だった。コリの家族は時計師だった。しかし、第二次世界大戦にコリはほかの大切な仕事していた。
コリはユダヤ人を隠した。自分の部屋ににせの壁を作っていつも約七人を隠していた。でも、ある日ナチの警察がコリの家族を見つけた。

コリの父はすぐに死んでしまって、コリは姉のベツシーと一緒に強制収容所に送られた。強制収容所に入るとき、何もを持ってくることができない。コリーは警備の前に裸で歩かなければいけなかった。これは武器などを見つけるためにはもちろん恥をかかせるためにもだった。でも、コリは神様へ祈って、裸で聖書を運んで警備の前に歩いた。そして警備は何も見えなかった!後で、この聖書で、多数の囚人と自分の信仰の証を立てた。この聖書はみんなの期待だった。

コリ・テン・ブームは信仰心の篤くて勇敢な人だった。91目の誕生日に死んでしまった。もしコリさんの人生についてもっと知りたければ、彼女の自叙伝を「The Hiding Place」という。
1945年、第二世界大戦が終わった後、ドイツが公式めに分けられました。それから東ドイツと西ドイツがありました。西ドイツがアメリカに管理されました。そして東ドイツがソウィエトに管理されました。ですから、資本主義の西ドイツに対して、東ドイツは共産主義でした。それに、1953年”ドイツの壁”が建てたし、分ける感じが強められました。そのとき東西関係禁止があるし、壁を越えたら、人々がよく殺されました。
それに、共産主義の東
ドイツ東に人々の生活はだんだん悪くなりました。ですから、43年後、1989年ドイツの政治家ヘルムトコールは”ドイツの壁”を落ちされたし、ドイツがついに統一されました。

20世紀に世界がはやく動くようになってきた。輸送車が作られたことによって、どこでも食品が輸送された。そして、食品産業が増えられた結果、世界人口爆発がおこられた。20世紀末に工業技術がどんどん進んだ。そのテクノロジーの中にダーパーが作られたインターネットがはじまった。1990年代にインターネットの普及が広まった。インターネットショピングをはじめ、SNSというサービスも流行になった。今、インターネットで世界が接続された。

  21世紀始めは地球村時代であった。インターネットのおかげで、世界各国の情報は早く伝えた。
  2000年から、インターネットはだんだん普及して、人間の生活方法が大きく変わってなったのであった。イーメールの誕生で、手紙はプレゼントになったみたいであった。インターネットで買い物もできるし、友達を作るのもできるし、遠く会議もできた。人間は自分の家で過ごして、全然出かけなくてもよかった。人間味がだんだん薄くなったのであった。
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